うら田 創業80年史
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19第1章 始まりはパン屋からは当時流行した結核や天然痘にかかってしまったのか、年端も行かないうちに皆相次いで命を落としてしまった。 兄弟の中でただ一人生きながらえた一だが、此この花はな町まちにあった尋常小学校に通っていた7歳頃に父が亡くなった。 承蔵がどのような仕事で生計を立てていたかは判然としない。ただ、一家を支える大黒柱を突如失い、母子二人の暮らしは困窮を極めていった。 その日その日をかろうじて食いつなぐような生活が続き、成長期を迎えても一はやせ細ったまま。家に電灯もなく、夜は窓から差し込む街灯のわずかな明かりを頼りに生活するという毎日だった。 パン屋の草分け、桂月堂で修業  小こ将しょう町まちにあった高等小学校(現在の中学校1・2年)を卒業すると、一は金沢都心の広坂通りでパンを製造、販売する「桂けい月げつ堂どう」で職人としての修業を始めた。大正14年(1925年)のことである。

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