うら田 創業80年史
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29第1章 始まりはパン屋から 時局に翻弄されながらも、一は必死に店を守ろうと奮闘した。一にとってある種の幸いだったのは、成人男子が次から次へと戦地へ駆り出されるなか、招集を免れたことだった。身長は160センチ足らず、体重42、3キロと体格に恵まれていなかった一は、徴兵検査で体格、健康状態ともに劣るとして丙種合格を言い渡されていた。合格と言っても、実質的に兵役に適さないと判断された丙種である。30を超えていた年齢もあってか、兵力の不足を補うべく日本が学徒出陣に踏み切った太平洋戦争終盤になっても、一の元に召集令状が届くことはなかった。 出征は男の名誉とされる世の風潮の中で、大っぴらには口にできなかっただろうが、すゞもきみもほっと胸をなで下ろしたに違いない。 戦況は悪化の一途をたどり、米軍の大型爆撃機B29が石川県上空に侵入し、いつ空襲が来てもおかしくないと言われた終戦間際には一郎をきみの実家のある能登部に疎開させた。 実際、昭和20年(1945年)7月には福井市が空襲に見舞われ、1500人以上の死者が出た。続いて8月には金沢の上空を通り過ぎたB29の編隊が富山市で雨あられのように焼夷弾を落とし、市街地のほとんどが焦土と化した。

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