うら田 創業80年史
28/141

30 金沢市民も警戒感を募らせていた。桂月堂売店から200メートルほど離れた場所にあり、戦時中は軍需工場として稼働していた津田駒工業の周辺では、焼夷弾が落ちても工場に延焼しないように家屋を強制的に壊す〝建物疎開〞をするなどして空襲に備えていた。 登校前のパンの仕入れが日課に  昭和20年(1945年)8月、広島と長崎に原爆が投下され、22万人余りの貴い人命が失われた。そして8月15日、300万人を超える多くの人々の命を奪った戦争は、日本の敗戦という形で幕を閉じた。 戦争が終わったとはいえ、国中で誰もが貧しく苦しい生活を強いられた。生活物資の配給は遅配や欠配が続き、常に空腹と戦いながら誰もが今日をどう生き抜くかと向き合っていた。 幸い空襲に遭わなかった金沢は、他都市と比べると復興の立ち上がりは早いほうだった。建物疎開の跡の片町の空き地では、やがて市民市場と呼ばれる闇市が立ち、

元のページ  ../index.html#28

このブックを見る