うら田 創業80年史
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31第1章 始まりはパン屋から食料品などが高値でも飛ぶように売れていった。 昭和21年(1946年)も暮れになると、日本に駐留する米軍からの放出物資として金沢市内にも小麦粉が出回りだした。桂月堂のパン製造も次第にかつての活気を取り戻したようで、野町小学校に通うようになっていた一郎は、朝早く広坂通りの本店まで行ってパンの仕入れを手伝うことが日課となった。男手が足りず、小学生とはいえ、貴重な労働力だったのだ。 パンは木製の番ばん重じゅう(パンや菓子を入れて運ぶ浅くてふたのない箱)に入るだけ詰め、それを自転車の荷台にくくりつけて運んだ。自転車は一郎には大きすぎる大人用のもので、サドルに座るとペダルに足が届かなかった。そこで一郎は三角形をしたフレームの中に片足を突っ込み、向こう側のペダルを踏む〝三角乗り〞で自転車を操った。 車体を傾けながらこぐ三角乗りは不安定な乗り方である。広坂通りから桂月堂売店に行くには、犀川大橋を渡った直後に急勾配の坂道を上らねばならず、一郎はバランスを崩して転んでしまうこともあった。 番重からこぼれた丸い形のコッペパンなどは、坂道をころころとよく転がったことを一郎は今も鮮やかに覚えている。家業を手伝う小学生が困っているのを見かねた

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