うら田 創業80年史
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42 もっとも、当時、一にしても一郎にしても、モラロジーの考え方に特別関心があったわけではなかった。 一郎の記憶では、一は麗澤高校の教育環境が整っている点に魅力を感じたようだった。というのも、店の近くのにし茶屋街の西側には石坂遊廓と言われた赤線街が広がり、子どもの教育上、好ましい環境ではなかったからだ。例えば、石坂遊廓の中にある銭湯の息子は一郎の仲の良い友達だったが、一郎がそこへ遊びに行くと一は決まって叱りつけた。「跡取り息子を大切に育てたい」。そんな親心から、千葉であれば息子が勉強に集中して取り組むことができると考えたに違いなかった。 一方、一郎には親元を離れて気楽に生活できるという期待と、東京の近くへ行けるという憧れがあった。 仕事の合間にモラロジーを勉強  年が明け、昭和28年(1953年)1月に一郎は受験のため、初めて麗澤高校を訪れた。今でこそ周囲には住宅が建ち並ぶが、その頃は辺り一面に田畑が広がるだけ。

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