うら田 創業80年史
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59第2章 山あれば谷ありはよく理解ができず身が入らなかった。部活動は中学時代から好きだったバスケットボール部に所属し、キャプテンも務めた。 楽しみは月に1、2回、日曜に友人たちと東京・上野まで足を伸ばし、映画を見ることだった。3月にもなると、上野駅は集団就職で上京してきた「金の卵」と呼ばれる若者でごった返していた。窮屈な寮生活では味わえない解放感をひと時味わえる街、それが一郎にとっての上野であった。 夏休みも一郎にとっては待ち遠しいものだった。麗澤高校には全国から生徒が集まっており、一郎は夏休みになるとよく友人を頼って岐阜や名古屋を旅行した。 昭和を代表するスター・石原裕次郎が映画『太陽の季節』で鮮烈デビューした昭和31年(1956年)、高校を卒業した一郎は立教大学経済学部に進んだ。大学では勉強の傍らワンダーフォーゲル部に所属し、山歩きを楽しんだ。麻雀を覚えたのもこの頃だ。朝登校すると校門の前に友人が待ち構えていて、そのまま友人宅に向かい、麻雀に興じることもしばしばだった。 大学の2年先輩には東京六大学野球の花形選手として注目を集める長嶋茂雄がいた。立教大学は長嶋らの活躍によって昭和32年(1957年)春季から翌年秋季まで
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