うら田 創業80年史
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62一郎は当時から、製造は技術のある者に任せればよく、自分が将来果たすべき役割は経営の舵取りであると考えていたからだ。つまり、人をうまく使うには、まず自身が他人に使われてみる経験が必要であり、大阪屋での下働きを通して一郎は「社員は人であり、決して道具ではない。社員を大切に育てて人材の質を高めていくことが社業の発展につながる」との信念をますます強くしていった。 帯広千秋庵の小田社長に感銘  一郎が大阪屋での修業を終えたのは1年半後のことだった。坂本九の「上を向いて歩こう」が大ヒットし、「巨人・大鵬・卵焼き」が流行語となった昭和36年(1961年)秋、一郎は金沢へ戻る前に、大阪屋の岡社長の計らいで、北海道にある「帯広千秋庵」(現在の六花亭)の小田豊四郎社長のもとを訪ねている。 帯広千秋庵は昭和40年代にホワイトチョコレートを大ヒットさせ、全国的に有名になった菓子メーカーである。当時はまだ和菓子作りが中心で、「ひとつ鍋」というもなかが人気だった。この商品は、ふたと鍋をかたどった2種類の皮を使っていること

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