うら田 創業80年史
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66 昭和39年(1964年)1月には次男明とし朗ろうが誕生した。この年の10月に、戦後復興の象徴として誘致した東京オリンピックが開かれ、日本選手団は「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーボールをはじめ16個の金メダルを獲得し、日本中を沸かせた。 東京オリンピックに合わせて、東海道新幹線や名神高速道など日本各地でインフラ工事のつち音が高らかに響き、高度成長期に入った日本経済と軌を一にして浦田の業績も順調に伸び、増産に次ぐ増産に追われた。大蓮寺の敷地に建てた工場は手狭になり、創業地のすぐそばにあったダンスホールが閉店したのを機に、その建物を買い取って新工場を稼働させた。浦田の将来は、東京オリンピック開会式当日の秋晴れの空のように一点の曇りもないように思えた。 工場が火災で全焼 予期せぬ不幸が浦田を襲ったのは、昭和40年(1965年)9月1日午後2時半過ぎのことだった。稼働したばかりの浦田の新工場が火災で全焼したのだ。 火元は新工場に隣接する木造の倉庫。火は屋根をつたって工場に燃え移り、木造2
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