うら田 創業80年史
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95第3章 焼け跡からの再出発 社長の座を長男に譲った一は、その後の20年間を隠居生活を楽しむように送っていた。会長職にあったとはいえ、経営には口出しをせず、自宅を米泉町から地じ黄おう煎せん町まち(現在の泉野町・泉が丘)に移した後は、そこから歩いて20分ほどの距離にある野町本店まで、散歩がてら顔を出す程度だった。 肝臓の悪化した一が有松中央病院に入院したのは、亡くなる数カ月前のことである。入院後、一郎は毎朝病室を見舞い、一言二言声を掛けてから出勤するのが日課になっていた。その日の状況を一郎は次のように思い返す。「病状は安定していて、命が危ぶまれるような状況でもなかった。その日の朝もいつもと変わらず元気な様子だったので、夕方、病院から知らせを聞いたときにはすぐには信じられなかった」 ただ、一自身は残された時間がそう長くないと感じていた節がある。一の社長時代、出かける際運転手も務めた古参の従業員で、一から厚い信頼を寄せられていた大森瞭あきらは「亡くなる少し前に見舞いに行くと、〝死んでから墓参りに来られてもちっともうれしくない。生きとるうちに何べんでも顔を出してくれ〞と言われた。創業者は口数の少ない人だったが、我が子のようにかわいがってもらっていたので、その一

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