うら田 創業80年史
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97第3章 焼け跡からの再出発た。この年秋のプラザ合意を引き金として円高が急激に進んだ。その対策として、日本政府と日銀は公共投資の拡大や公定歩合の引き下げに力を入れたことで金あまり現象が生まれ、俗にいうバブル景気の引き金がひかれた。 石川県内では東レ、松下電器産業など大手企業の進出が相次いだほか、金沢市内でも金沢駅西口の開設、香林坊109といった新たな街の顔が誕生するなど、活況を呈した。 一方、浦田は実体のない好景気に踊らされることなく、これまでと同様堅実な経営姿勢を貫いた。その中で特筆すべきは、昭和62年(1987年)6月、金沢市泉野町4丁目にオープンした泉野店である。浦田では当時、百貨店やショッピングセンターなどに10店ほど出していたが、直営店は野町本店だけだった。 2店目の直営店となる泉野店の土地は、そもそもここで店を開くために買い求めたわけではなかった。一郎が、母きみと病気を抱えた弟陽作を住まわせるために探したものである。きみと陽作は金沢市有松のアパートで生活し、陽作は金沢市十一屋町にある授産施設、若草福祉作業所に毎日通っていた。そこで一郎は、陽作の通所が少しでも楽になればと、より授産施設に近い場所に二人の住まいを建てようと土地を
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